●そもそも学校教育とは
今の学校制度は、明治5年に学制が発布されて以来150年続いています。
そもそも学校制度が始まったころのことを思い返してみましょう。江戸時代には、日本国という認識はありませんでした。それぞれの藩がいわば自分の国のようなものでした。都があった京都からすれば、東北や九州などは今でいう「外国」といったような認識です。もちろん沖縄は文字通りの「異国」でした。関東はまだまだド田舎です。
明治維新の後、東京を新しい日本の中心にするべく、改革が行われていきました。
近代化を目指した日本は、「日本国の一員である」という意識を植え付けるために共通の生活様式や共通の言葉遣いを求める必要がありました。それが学校教育の始まりです。明治初期は子供=労働力ですから、多くの百姓は子供を学校なんかに行かせたくないと考えました。じっさい、初めの数年の就学率は20%程度だったそうです。しかし数年もするとそれは一気に80%台にまで普及し、立身出世こそが階級上昇の道だと考える人が増え始めます。日本国憲法に「教育(を受けさせる)義務」が記されていることもあって、現在でも「就学期には学校に行く」ということが当たり前になっています。
ここでは「つい150年前には学校教育は決して当たり前ではなかった」ということを押さえておいてください。
イギリスに端を発した「産業革命」が訪れると、その流れは世界全体に波及します。ここで学校教育にはさらに重要な役割が生まれました。
それが「時間を守ること」「言われたことに従うこと」「反復作業を嫌がらないこと」の3つです。
産業革命を決定的なものにしたのが蒸気機関です。機械を安定して動かすためには、時間を守って反復作業ができる人間が必要でした。「言われた通りに」「正確に」木炭を投入する人間がいなければ、機械が止まってしまうからです。
そのときに学校教育は、工場で働く人間を量産するために大変な効果をもたらしました。労働生産性がてきめんに上昇したのです。その成功体験をよりどころに現在でも、劇場型授業、学年主義(年齢主義)、学区制、40人学級、部活動、偏差値教育などが行われています。これらは、画一的な人材を育成するのに大変優れた方法です。
旧来型の学校教育では「自分で考えること」でなはく「考えないこと」を、「自由な発想」ではなく「言われた通りに作業をすること」が求められます。そのことをハンナアーレントは「全体主義教育の目的は、信念を吹き込むことではなく、創造性を破壊することだ」と言っています。
●時代が変わっていく中で
ところが21世紀の現在、世界はどうなっているでしょうか。インターネットが普及してグローバル化が進み、工場は海外に移転され、モノは十分にあふれていて、量産すれば売れるという時代ではなくなりました。AIの普及で、そもそも人間が作業をする必要もどんどん無くなっています(細かい計算をする経理の人、改札の切符を切る人、株の売買を受発注する人、など)。簡単に言うと、工場で働こうにもその工場が無いという状態です。それに(おもに先進国での)少子高齢化、人口減少が拍車をかけています。今後ものすごい勢いで、今ある仕事がなくなっていくと言われています。
これは「やるべきことを与えられて目の前の作業をそつなくこなしていく」という生き方が通用しなくなっていくということを意味しています。けれども、学校教育の中にはまだまだ「時間を守ること」「言われたことに従うこと」「反復作業を嫌がらないこと」の3つを高いレベルでこなせる人が評価される空気が残っています。先生の言うことを聞いて、時間を費やして課題を提出し、習った内容を正確にペーパーテストに再現できる人は、「優秀な生徒」と言われるでしょう。
しかし中には、数字で評価されにくいことが得意だったり、興味がないことは覚えられなかったり、読むことや話すことが苦手な人もいます。本当は高い能力や知的好奇心を持っているのに、やりたくないことを無理やりやらされ、くすぶっている人がいるとしたら、大変悲しいことです。それはウツや引きこもりという結果に現れるかもしれません。それは豊かな才能の芽を摘んでしまっているのかもしれません。
さらに悪いことには、既存の教育システムの中で「優秀な生徒」と言われていた人ほど、来るべきAI社会において何もやるべきことがない人材になってしまう可能性が非常に高いのです。せいぜい数が少なくなった公務員か、マックジョブ、AIやシステムの保守管理の仕事をすることになるでしょう(極端な言い方ですが)。グローバルな視点で見れば、インターネットと高度な通信技術の普及によって急速に国同士の格差は減っているのですが、各国内で見るとどんな先進国でも深刻な格差が広がっています。GAFAを擁するアメリカなどは超格差社会の総本山ですが、日本も例外ではありません。
インターネットがない時代(30年前)、あるいはスマートフォンがない時代(15年前)と比べても、世の中は想像以上に変化しています。まったく新しい価値観、まったく新しい仕事が生まれています。音楽業界ではレコードの時代からCDの時代へ、今ではサブスクリプションモデルが主流となりました。YouTuberやプロゲーマーという職業が成立することを、15年前の時点で誰が予想できたでしょうか。世の中の「当たり前」は、時代とともにまったく変わってしまうということです。
●既存の価値観に対するクリティカルシンキング(批判的思考)を
では学校教育の「当たり前」は更新されているのでしょうか。もちろん150年間、全く変化がないとは言いません。マイナーチェンジは繰り返しています。しかし祖父母の時代(60年前)、親の時代(30年前)の「当たり前」で物事を判断してしまうことは大変多いです。「自分が子供のころはこうだった」というやつです。これはたいていの場合、時代遅れになるということを自覚した方がよい。さらに、時代が進むにつれて変化の度合いが激しくなることが知られています。一昔前の10年と、今の10年は全く違うと考えた方が良いでしょう。5年先の未来ですら、だれも予測できない時代です。たとえば「10年後に淘汰される企業を知るには、現在の学生の就職したい企業ランキングを見ればよい」なんていう皮肉があるほどです。
であるならば、私たちに出来ることは何か。それは変化を恐れずに、柔軟に対応することです。
生物学者のダーウィンはこんな言葉を残しています。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。
唯一生き残るのは、最も変化できる者である。」
変化が大切であるとして、では具体的にどうすればよいのか。全員がこうするべき、という明確な答えがあるわけではありませんが、まずはそれぞれの立場で「何が必要で、何が必要でないか」を再考することではないでしょうか。必要でないことをやめるということが、その変化の第一歩になります。
具体的には
「宿題は必要か、必要ないか」
「部活はやりたいか、やりたくないか」
「学校のイベントを利用するか、外部を利用するか」
「どんな学校に進学するか、就職するか」
「学校に行くか、行かないか」
といった一つ一つを、皆さん自身が再考する必要があります。そして答えは個人によって違うのが当然であろうと思います。
たとえば東京の麹町中学校に改革をもたらした工藤勇一さんは、「宿題の廃止」「担任制の廃止」「定期テストの廃止」などのさまざまな改革を行ったことで有名です。いずれも昔からの慣習であり、今の時代には合わないという判断からです。今この取り組みは、日本全国で参考にされています。
受験勉強にしろスポーツにしろ、本気でやりたい人はやるし、そうでない人はやってもあまり意味がないという現状があると思います。であるならば、宿題にしろ部活にしろ、全員一律に強制するのはそれが合わない生徒にとっては大きな苦痛になります。大切なのは、子供本人が何をやりたいかということに注目することです。それをうまく拾い上げ、サポートするのが教育者の役割であると思います。
その次には「自分は何がやりたいのか」を明確にすることです。
これもよく言われることですが、好きなことでないと上達しないし、継続もしないということです。
「全然頭に入ってこないのに作業としての宿題をやる」とか、「全然やりたくないのに部活が休めない」とかいうのは危険信号です。
以上をまとめれば、「やりたくないこと(やる必要のないこと)はやめて、やりたいことをやる」ということです。非常にシンプルな話ですが、これはかなり強い意志を持っていないとできません。そして自分の興味のアンテナを高い精度で磨いておくことが必要です。
●学校に行かなければならないか
そこでさらにラディカルに「そもそも学校に行く必要があるのだろうか」という問いについて考えてみたいと思います。当然ですが、学校制度をなくしてしまう必要はありません。
AIが普及しても、世の中の変化のスピードが速くなっても変わらずに必要なのは、豊かな教養と、たしかな基礎知識です。まずは「読み書きそろばん」。具体的には語彙力、漢字、文章校正力、ロジックとレトリック、四則計算、英単語といったところです。それらを土台として、変化の激しい人生をよりしたたかに生きていくために積み上げていきたいのが「歴史」と「科学」です。
歴史を勉強するのは、今あるものを「あたりまえ」だと思わないためです。
科学を勉強するのは、ニセモノの情報に踊らされないためです。
ある年齢に達した子供全員に対して、上記のような社会通念や基礎知識を教えるために、学校という仕組みはまだまだ有用な面もあります。五教科の内容がまんべんなくカバーされているのに加えて、技術や家庭科、修学旅行や遠足、様々なスポーツに触れられるというのもよい経験になります。
一方で、従来の学校教育にはあまりにも非効率な点もあります。
様々な学力レベルの生徒を一斉に教えなければいけないため、中間かその少し上くらいの生徒を基準にした授業をすることになります。そうすると、高い学力レベルの子にとってはとても退屈な授業になってしまう。
「5分で理解できることを50分かけて聞かなければならない」と言われるのは、ある種の生徒にとっては切実な問題です。方や、全く授業が理解できなくてもじっと座って話を聞き続けなければならない。教室で座っていられなかったり、文章が読めない(識字障害)、話が聞けないという子もいるかもしれません(『窓ぎわのトットちゃん』で有名な黒柳徹子さんは、ほんの一か月で小学校を退学になったそうです)。
それならば、現行の一斉授業は廃止し、それぞれの子供に合った方法で学習をしていくのが理想的ではないかと思います。実際に、習熟度別のクラス編成を取り入れている学校があったり、授業の中で生徒同士が教えあうような「ミニ先生」システムを導入している先生もいます。また、海外発の「イエナプラン教育」や「モンテッソーリ教育」などのように、学年や時間で区切らないで、自由な発想を大切にする教育法が注目を集めています。しかし教育改革に保守的な日本では、これらの新しい教育法がまだ市民権を得ているとは言えません。
そこで、稲垣教育研究所では、明確に次のような価値観を提示したいと思います。それは「学校は行っても行かなくてもいい場所である」ということです。
「学校」というくくりがあまりにも大きいと思われるならば、「部活」とか「学校行事」とか「宿題」というふうに言葉を置き換えてもらっても構いません。
義務教育で身につけるべき大切なこと(読み書きそろばん、科学、歴史)は、学校でなくても学べます。
よく「学校は社会性を学ぶところだ」という言われ方をしますが、これもまやかしです。むしろ趣味の世界で知り合った仲間の方が長続きすることは大人たちもよく知っているはずです。必要ならば、地域のスポーツ同好会やサークルのメンバーと旅行でもイベントでも立ち上げればよい。むしろ共通の目的を持つ人同士の方が早く打ち解けられます。
ましてや「与えられた設問に答えること」「言われたことに、文句を言わずにこなす能力」というのは、これからの時代にますます必要とされなくなっていきます。
ただし、学校に行かないという選択肢も、現在ではまだまだたいへんにエネルギーがいる生活を送ることになります。そちらの方がよほどストレスを感じることもある。ですから、学校での学びが効率的だと思い、かつ問題なく適応できるのなら学校に行けばいいし、適応できないなら行かなくても良い。これもまた「自分の価値判断の中で選ぶ」ということです。
●「学びへの没頭」が生まれる場所に
稲垣教育研究所では、既存の学習塾や学童保育のように、放課後の時間を有意義に過ごすために作られた場所です。時間はたっぷりあるはずです。自分は何が好きで、何がやりたいのか。あなたの偏愛マップを見つめましょう。苦手な勉強をするよりも、動画を見たりマンガを読んだりする方が有益なこともあります。夢中になってハマれるものを見つけたとき、人間の知的好奇心は駆動します。そこで改めて、日々の勉強が必要だと感じるかもしれません。
豊富なジャンルで好奇心を生み出せるような種をまきます。もし子供が何らかの楽しみや発想の萌芽を見つけてきたら、けっしてそれを否定することなく、さらに後押しできるような環境を整備します。所長である僕の苦手な分野であっても、自分自身が勉強するつもりで一緒に探求していきたいと思います。大事なのは「貪欲に知を求めることに価値を認めているコミュニティ」が存在していることです。そのような環境があって初めて「学びへの没頭」が生まれます。その意味で、一緒に学びを追求できる同志として、ぜひこのコミュニティに仲間入りしてください。
走り始めるなら、早い方が良い。いつやるか 今でしょ!